海洋窒素循環の考え方、その古海洋・現海洋に関わる問題
南川雅男海洋における窒素の研究は、地球環境研究に欠かせない課題として再認識されるようになってきた。今どのような背景から窒素循環に興味が向けられているのだろうか。現海洋、古海洋をつなぐ研究の現状を紹介し、今後重要となる課題とはどのような研究なのかについて展望する。
まえがき
地球表層の炭素サイクルに関わる問題は、海洋のさまざまな学問分野の研究方向に影響を与えてきたが、その動機のひとつは炭素のミッシングシンクを突き止めなければという危機意識であったといってもよいだろう。炭素サイクルが引きおこした波紋のひとつは、海洋生物の生産性に関する広範な議論となって20世紀末に活発に議論を巻きおこした。たとえば海水中の有機態炭素プールの問題、新生産の見積もり、鉄仮説、HNLC海域の原因、ケイ藻/円石藻フラックス、微生物循環の役割、南大洋の評価等々、これらのトピックスは今世紀になってもホットな研究課題として研究フロントを牽引していくだろう。言うまでもなく、これらのテーマは、海洋生物が炭素を固定・吸収する能力は全海洋でどれくらい大きいのか、もしかするとそれが最終氷期に大気中の二酸化炭素濃度を引き下げた理由ではないのか、また海洋生物の活動は増え続ける大気中のCO2濃度の正確な予測に不可欠な知識ではないのか、という点で総合化されてくる。そうした観点から忘れてならないのは、海洋における窒素循環に関する問題である。この古くて新しい問題は近年、海洋生物学、海洋化学、生物地球化学、古海洋学、古気候学などの専門分野を縦断した課題として近年加熱しつつある。こうした状況をふまえ、昨年12月に東京大学海洋研究所において、今世紀の海洋窒素の研究を展望することを目的としてシンポジウムが開催された。ここにはその際おこなわれた主な研究発表と活発な議論を特集した。本稿では、海洋窒素研究の背景と現状についてまとめ、今後重視すべき方向について考察を試みる。海洋窒素の再評価
Codispoti(Old Dominion University)は1995年のネイチャー誌に「海は硝酸を失いつつあるか?」という短文を寄稿し、海洋における脱窒と窒素固定の収支勘定が合わないことをもはや放置すべきではないと海洋科学者を鼓舞している。それというのも、現海洋では鉄欠乏などで生物生産が抑制されている海域は確かにあるが、世界の多くの海洋は栄養塩、特に海水中の窒素(硝酸)の供給不足により植物の生長が阻害されている貧栄養海域であり、全海洋がどれくらい窒素を光合成系に供給できるかどうかが生物ポンプのキャパシティを決める鍵となっている、という論旨である。確かに海洋における窒素収支は一昔前まできわめて大ざっぱな数値しかなかった。海水中の藍藻類が行っている窒素固定で海に供給される量や還元環境下での脱窒反応の推定値は、前者は1〜130TgNyr-1、後者では0〜330 TgNyr-1などと、ほとんど上限だけを見積もってきたのが現状である(Bolin and Cook, 1983, SCOPE21)。その後Codispoti & Christensen (1985)は脱窒フラックスを120 TgNyr-1と窒素固定を25 TgNyr-1に改訂し、さらに後に述べるGruberら(1997)は最近80±20 TgNyr-1、と120±40 TgNyr-1とに推定し直している。生物界を制御している重要な元素にもかかわらず、この不確かさは研究の困難さを表しているのか、あるいは関心の薄さを示すのか。
藻類による窒素固定もバクテリアによる脱窒過程も、海洋生物や海洋生態学ではおそらくもっとも長く、詳しく研究されてきた研究対象と言っていいだろう。いずれについてもその活性を現場でかなりな精度で実測することは可能である。またその担い手である生物種の分類や生態も詳しい研究が行われてきた。現に70〜80年代の日本でも、国際的にもっとも高度な研究を外洋・沿岸において推進してきた実績がある。しかし、当時の興味はもっぱらプロセススタディにあり、ピンポイント調査が主流であった。90年代になってグローバルな議論が必要になっても、海洋の全体像をとらえるという作業は立ち後れ気味となってしまった。その点では炭素循環についても同じ状況であったが、こちらは80年代から90年代にかけて大気、海洋、生物圏を巻き込んだ相補的研究の枠組みがいち早くできあがり、高密度のモニタリング中心の研究調査が先行したおかげで、ピンポイント研究とグローバル研究がかみ合って発展した。その陰にあって、海洋窒素の展開方向はしばし棚上げにされていたかのように見える。窒素研究への回帰
ところがこの状況はこの数年の間に大きく変化しつつある。昨年テキサスで開催されたASLO-AGU(アメリカ陸水学海洋学会と地球物理学連合)の2000年記念合同学会では、窒素や窒素固定に関する研究が炭素の研究と同様に発表数が多く、各会場とも熱気をはらんでいた。このように状況が変化したのは、ひとつには炭素サイクル研究に生まれてきた閉塞感と、もうひとつは窒素循環の研究手法にもたらされたブレークスルーがあるのではないだろうか。過去の氷期ム間氷期サイクルの中で現れる大気CO2濃度や気温、氷床量の変動を解釈したBroecker(1998)は、氷期にCO2濃度が降下した説明として、海洋への鉄供給の増加によって生物学的窒素固定が高速度で駆動したためではないかと述べている。その真偽はともかく、つまりはボストークコアに見られる気候変動、大気CO2濃度変動などの全球的変動シグナルを炭素循環だけで説明することは不可能なことは自明になっている。一方ほとんど時を同じくして窒素を研究する手法に新しい鳴動が生じてきたのは必ずしも偶然ではないだろう。窒素化合物がもつ15N/14N比の分析が格段に簡便化され、窒素循環に生じたさまざまな変化を解読する理論と豊富な材料が蓄積されてきた。また、微量な硝酸態窒素の15N濃度をまるでモニタリング同様の感覚で分析できるようになるなどの革新がおこりつつある(Sigmanら 1997)。一方において、物理モデルの専門家から提案された海水中のNとPの残存比を評価するN*の概念は画期的であった。水塊が持つ窒素代謝履歴の違いを初めて全球的な視野で効果的にとらえる手段を与えた(Gruber and Sarmiento 1997)。特に、これまで曖昧であった脱窒由来窒素の北西太平洋における広がり、亜熱帯/熱帯域で窒素固定性の栄養塩分布の領域が示され、現場での研究結果をつきあわせる尺度が生まれてきた。海洋における窒素収支の問題点
窒素固定と脱窒、および陸圏からの流入が海洋における窒素の現存量を支配している。この基本構図は氷期ム間氷期で同じであるが、そのフラックスは変化した可能性がある。現在、東太平洋の熱帯・亜熱帯域、インド洋北西部の湧昇域では表層に供給される濃い栄養塩を利用して高い生物生産が生じている。その下層の水柱では、表層から輸送された有機物が分解することにより多量の溶存酸素が消費されて低酸素水が生じ、脱窒反応を導いていることが知られている。Ganeshramら(1995、2000)は同海域での海底コアの有機態15Nの鉛直分布から、脱窒の強度が氷期に弱まっていたと主張している。その根拠は最終氷期に有機物の堆積フラックスが減少し(湧昇が止まった)、δ15Nが軽くなる(脱窒が弱まった?)という現象が南カリフォルニア、北西メキシコ湾、ペルー沖、西インド洋の湧昇域で同時に見られことである。その結果、湧昇域での窒素の減少が節約できるため、海洋全体での窒素在庫量が増し、表層水の富栄養化をもたらしたことで生物ポンプが活性化されたという。脱窒が止まり、窒素固定が現在の二倍に増幅していたとすると数千年で全海洋の硝酸が倍増する計算になる。氷期の生物ポンプ加速の説明としては、この脱窒減少仮説と、南大洋での窒素固定を重視する仮説とが真剣に検討されつつある。目下、どれかの仮説にとって有利な証拠を見いだそうと熾烈な競争が繰り広げられている。このように化学的プラクシーの結果を制限要因として、生物現象の規模や枠組みを論じるのは最近の流儀であるが、逆に生物組成のもつ強制条件が軽んじられる傾向があり、はたしてどこかに見落としがないか冷静に検討する必要があるだろう。たとえば海底コアに残存する生物マーカーの研究から、生物学的な強制条件を提出するなどの研究が考えられる。いずれにせよ、当分は氷期における脱窒と窒素固定の評価について論議がつづくものと思われる。陸圏・大気圏からの窒素負荷
窒素循環におこる変化を考えるうえで今後重要となるのは、河川からの溶存態および懸濁態窒素の流入と大気圏降下物からの窒素である。都市河川や内湾での富栄養化は良く知られているが、これが全世界でどれくらいの規模でおこり、窒素循環にどう影響しているだろうか。Seitzinger and Kroeze (1998)は人類の生活圏からの廃棄物や肥料消費、大気降下物の土壌への負荷などの全世界のデーターベースをもとに世界の主要河川から流出する窒素量を見積もっている。それによると世界の河川から海洋に入るDINの全量は21 TgNyr-1で、そのうち9割が北半球の河川起源である。また、人工的な窒素固定による肥料の生産は年々拡大しているため、2020年には世界で140 TgNyr-1の窒素が地表で消費される(Galloway 1995)。この結果今後海洋に流入する窒素はますます増加すると予想されている。北米のミシシッピー川水系で行われている窒素フラックスの年変動の研究によれば、この水系だけで1.5 TgNyr-1の硝酸が海水に流入し、その結果生じる富栄養化によりメキシコ湾に広範囲な酸素欠乏層が観測されるようになっている(Goolsby 2000)。ミシシッピーに比べて約4倍の窒素排出量が見積もられている長江流域では今後さらに大きな影響が発生することが危惧される。
降水やエーロゾルなどとして大気圏から海洋に供給される窒素の量も無視できなくなってきている。陸上での人類活動により地表から放出された窒素化合物が大気中で酸化され雨滴などと一緒に降下する。この量は産業革命以前では15 TgNyr-1程度と見積もられているが、化石燃料の燃焼などにより近年では倍増していると推測されている(表1)。河川の流入とあわせると、こうした陸あるいは人類起源の窒素フラックスは、すでに自然レベルの脱窒量を超えており、したがって窒素はすでに海洋に蓄積し始めているということができる。今後の展望
このようなグローバルな窒素収支の推定が正しいかどうか検証することも含め、それがもたらす海洋環境、生物環境の変化を予測することが今後の大きな課題である。窒素は他の元素以上に生物過程の関わりが大きいうえ、酸化還元条件によって激しく化学形を転じることが特徴である。過去に研究されている単純過程や生物種別の知見を総合するだけでは容易にシステムの動きが掴みにくい。これを埋めるためには全球の窒素循環を総合的に判断するためのシミュレーションモデルを構築しておくことは不可欠である。当然ながらGCMと生物圏を結合した機能をそなえ、同位体や他の栄養塩との関係、生物種の地理的分布などを強制条件にできることが望ましい。海洋窒素の動態を新しい切り口で研究するため化学的手段や解析手段にはさらに工夫すべき余地があるだろう。参考論文
Bolin B., and Cook, R.B., The major biogeochemical cycles and their interaction, SCOPE 21, John Wiley and Sons, pp.532 (1983)
Gruber, N. and Sarmiento, J.L., Global patterns of marine nitrogen fication and denitrification, Global Biogeochemical Cycles, 11, 2, 235-266(1997)
Sigman, D.M., Altabet, M.A., Michener, R.H., MaCorkle, D.C., Fry, B. and Holmes, R.M., Natural abundance-level measurement of the nitrogen isotopic composition of oceanic nitrate: An adaptation of the ammonia diffusion method, Marine. Chem, 57, 227-242 (1997)
Codispoti, L.A. and Christensen, J.P., Nitrification, denitrification and nitrous oxide cycling in the eastern tropical South Pacific Ocean, Marine Chemistry, 16, 277-300 (1985)
Codispoti, L.A. Us the ocean losing nitrate?, Nature, 376, 724 (1995)
Broecker, W.S. and Henderson, G.M., The sequence of events surrounding Termination II and their implications for the cause of glacial-interglacial CO2 changes, Paleoceanography, 13, 352-364 (1998)
Ganeshram, R.S., Pedersen, T., Calvert, S.E. and Murray, J.W., Evidence from nitrogen isotopes for large changes in glacial-interglacial oceanic nutrient inverntories. Nature 376, 755-758 (1995)
Ganeshram, R.S. Pedersen, T.E., Calvert, S.E., McNeil, G.W. and Fontugne, M.R., Glacial-interglacial variability in denitrfication in the worldユs oceans: Causes and consequences, Paleoceanography, 15, 4, 361-376 (2000)
Goolsby, D.A. Mississippi basin nitrogen flux believed to cause gulf hypoxia., EOS, 81 29, 321-327 (2000)
Seitzinger, S.P. and Kroeze, C., Global distribution of nitrous oxide production and nutrient inputs in freshwater and coastal marine ecosystems. Global Biogeochemical Cycles, 12, 1, 93-113 (1998)
表1 海洋への窒素の供給源と流出先 (Gruber and Sarmiento、1997を和訳し、一部の表示を簡易化した) 産業革命前 産業革命後 現在 Codispoti and Christensen (1985) Gruber and Sarmiento (1997)その他の引用 同 左 Tg N/ yr Tg N/ yr Tg N/yr 供給源 外洋での窒素固定 25 110±40 110±40 底層での窒素固定 ... 15±10 15±10 河川流入(PON 25 20±10 34±10 河川流入(DON) ... 21±10 42±10 大気圏からの降下物 24 15±5 30±5 全供給量 74 181±44 231±44
流出先 底層での脱窒 60 85±20 95±20 水柱での脱窒 60 80±20 80±20 堆積物への埋没 ... 21 15±5 N20としての気化 1 4±2 4±2 全流出量 142 184±29 204±30